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この地域だから生き残れた。地域が育てたジーンズ縫製工場。

前編有限会社内田縫製 取締役

内田直行(左) 内田泰造(右)

津山市

#ジーンズ
#ブランドづくり
#縫製業界
#クラウドファンディング
#組織づくり

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1日本のプレミアムジーンズを支える縫製工場

丸尾

まずは、改めて内田縫製がどのような会社なのか教えていただけますか。

内田直行

一言で言えば、ジーンズをつくっている縫製工場です。

 

ただ、一般的に「ジーンズ」と言えば、価格帯や品質は本当にさまざまです。
その中で私たちが手がけているのは、日本国内で長く愛されているプレミアムジーンズです。販売価格で言えば、おおよそ3万円から5万円ほど。
国内では高価格帯に入る、本格的なジーンズを製造しています。

丸尾

いわゆるOEM生産が中心ということですね。

「縫製業界」というと、価格競争が非常に厳しい世界という印象があります。

内田直行

まさにその通りです。
縫製業界は昔から工賃が安く、人気のある仕事とは言えませんでした。日本国内で作っていたものが、中国、さらに東南アジアへと生産拠点が移り、どんどん安い工賃を求める流れになりました。だから国内の縫製工場は、本当に苦しい時代が長かったんです。

丸尾

なるほど。大変な時代が長かったんですね・・・。

内田直行

でも最近になってようやく、日本製の価値が見直されてきました。
海外でも「Made in Japan」のジーンズが高く評価されるようになってきて、私たちのお客様であるブランドも、多くが海外へ販売されています。

丸尾

日本の職人技術が評価されているということですね。

内田直行

そう思います。それに、この20〜30年で国内の縫製工場は本当に減りました。
だからこそ今残っている工場をブランドさんも大切にしてくださるようになりました。
ようやく業界全体が良い方向へ向かい始めていると感じています。

丸尾

その中でも内田縫製さんが選ばれている理由は何でしょうか?

内田直行

品質だけで言えば、日本に残っている工場はどこも高いレベルです。
その中でも、一番の違いは、「人」だと思っています。

 

内田縫製は従業員の平均年齢がおよそ40歳です。20代も約10人。30代も5〜6人います。縫製業界では、かなり若い会社なんです。

 

近年、縫製工場というと高齢化が進んでいますが、内田縫製は若い職人が育っています。
だから10年後、20年後、30年後も安心して仕事を任せてもらえる。
それがお客様からの信頼にもつながっていると思います。

丸尾

実際に工場へ伺っても、一般的な縫製工場とは雰囲気が全然違います。
若い方も多く、明るい空気がありますね。

内田直行

ありがとうございます。
若い人が集まる理由の一つは、自社ブランドがあることだと思います。
縫製工場でありながら、自分たちのブランドを持っている会社は本当に少ないんです。

 

ブランドに魅力を感じて入社してくれる若い人もいます。それがまた、新しい仲間を呼んでくれる。そんな循環が生まれています。

2「日本一働きがいのある縫製工場」を目指して

丸尾

先ほどから何度か「若い人が集まる」というお話が出ていますが、それだけではない気がしています。工場全体の雰囲気そのものが違いますよね。

内田泰造

ありがとうございます。
私たちが一番目指しているのは、「日本一働きがいのある縫製工場」なんです。
そのために取り組んでいるのが、「改善提案活動」と「小集団活動」です。

丸尾

「改善提案活動」というのは、具体的にはどういうものですか。

内田直行

日々仕事をしている中で、「ここがやりにくい」「もっと効率よくできる」「このやり方の方がいい」ということを、従業員自身が提案します。
そして提案だけで終わらず、自分たちで改善まで行います。
1年半前に開始してから、年間340件の改善提案が出ました。そのうち約240件は実際に改善まで完了しています。

丸尾

340件ですか!?それは驚きました。

内田直行

改善の目的は効率だけではありません。
「自分の意見が会社を良くする。」そう感じてもらうことなんです。
言っても何も変わらない会社では、誰も意見を出さなくなります。

 

だから改善担当が一つひとつ丁寧に拾って、形にしていく。
すると従業員もどんどん前向きになります。
その結果、生産性も自然と上がっていくんです。

丸尾

もう一つの「小集団活動」とは?

内田泰造

工場を七つのグループに分けています。
それぞれが自分たちで課題を見つけて、話し合い、改善策を考えます。
以前は経営陣が指示していました。でも今は現場に任せています。

 

すると、話し合いだけで生産効率が10%上がったチームもありました。
品質も上がる。効率も上がる。
そして何より、自分たちで会社をつくっているという実感が生まれるんです。

丸尾

まさに「やらされる仕事」ではなく、「自分たちでつくる工場」ですね。

内田直行

そうなんです。
昔の縫製工場は、黙々と縫うだけというイメージでした。もちろん職人気質の方も必要です。でも、そこへ明るい若い人たちが入ってきて、お互いに良い影響を与えています。

 

最近では、元気で意欲あふれる若者も入社してくれるようになりました。その雰囲気に引っ張られて、ベテラン社員も自然と笑顔が増えていく。
会社全体が前向きになってきたと感じています。

丸尾

内田縫製さんには独特の温かさがあります。
社員の皆さんが楽しそうに働かれている姿が、とても印象的でした。

内田直行

ありがとうございます。

 

もちろん技術も大切です。
でも、それ以上に、みんなが笑顔で働ける会社でありたい。
それが結果として、お客様にも伝わると思っています。

 

私たちが目指しているのは、日本一技術の高い工場ではなく、
「日本一働きがいのある縫製工場」。
その挑戦は、まだ始まったばかりですけど。

3「来い」の一言から始まった。地域とともに歩んだ57年

丸尾

ここまで現在の内田縫製さんについて伺ってきましたが、その土台となる創業の頃のお話もぜひお聞きしたいです。創業はおじいさまの代からだそうですね。

内田直行

はい。創業は1969年なので、今年で57年になります。

 

もちろん僕たちはその頃を知りませんので、祖母や地域の方から聞いた話になるんですが、うちの祖父はもともと縫製の仕事をしていたわけではありませんでした。
この地域に新しく縫製工場ができることになった時、人を集めたり、工場の立ち上げを手伝ったりする役割をしていたそうなんです。

 

祖父は昔から地域では顔が広かったみたいで、「あいつなら人を集められる」と思われていたんでしょうね。そうやって工場づくりを手伝っているうちに、「自分でもできるんじゃないか。」そう思ったみたいなんです。

丸尾

そこから独立されたんですね。

内田直行

祖父は、とにかく勢いのある人だったそうです。
準備が整うと、近所のおばちゃんたちのところへ行って、
「明日から来い。」そう声を掛けたらしいんです。(笑)

丸尾

「明日から来い」ですか(笑)。

内田直行

そうなんです。
祖母に聞いても、当時から働いてくださっていたOBさんに聞いても、みんな口をそろえて言うんですよ。「”来い”って言われたから行った。」それだけなんです。

 

当時、この地域には女性が働ける場所がほとんどありませんでした。
農業を手伝うか、家の仕事をするか。そんな時代です。
だから祖父が声を掛けると、みんな集まってくれた。

 

今では考えられないですよね。
最初の工場も立派な建物ではありませんでした。旧工場の隣にあった牛舎の二階。雨漏りするような場所にミシンを並べて、近所のおばちゃんたちと一緒に縫い始めた。
そこが内田縫製の原点です。

丸尾

本当にゼロからのスタートだったんですね。

内田直行

そうですね。
そこから高度経済成長の時代に入って、ジーンズの需要もどんどん増えていきました。従業員さんも増えて、外注さんも含めると、一番多い時には一日1,200本くらい縫っていたそうです。

 

今のジーンズより仕様もシンプルでしたから、とにかく数をつくる時代でした。
祖父はその勢いで会社を大きくしていったんだと思います。
しかし、その好景気は長くは続きませんでした。

丸尾

その後、国内の縫製業界全体が大きく変わっていったんですよね。

内田直行

そうです。
1990年代に入ると、生産がどんどん海外へ移っていきました。
工賃の安い中国へ。さらに東南アジアへ。
日本国内でつくられていたジーンズが、一気に海外生産へ切り替わっていったんです。仕事は激減しました。

 

売上はピーク時の5分の1以下。
工場としては、本当に厳しい時代でした。

丸尾

ホームページでも、その頃のお話を拝見しました。
当時は、倒産してもおかしくない状況だったと。

内田直行

普通だったら、潰れていたと思います。
でも、内田縫製は地域の人たちに助けられました。

 

仕事がなくなって父が従業員さんに、「ごめん、仕事がない。」
そう伝えた時、地域のおばちゃんたちは、「分かった。」
そう言ってくれたそうなんです。
仕事がないなら、その間は農業をする。畑に出る。

 

また仕事が戻ったら工場へ来る。
そんな働き方を、従業員さん達は受け入れてくれました。

工場から見上げる集落の風景
丸尾

都市部だったら難しかったかもしれませんね。

内田直行

そう思います。
津山市街地だったら、多分みんな別の会社へ行っていたでしょう。
でも、この地域は違いました。本当にみんな知り合いなんです。

 

140軒くらいある集落なんですが、その8割くらいが「内田」なんですよ。(笑)

丸尾

苗字まで同じなんですね(笑)。

内田直行

そうなんです(笑)。だから親戚みたいなものなんですよ。

 

小さい頃から知っている近所のおばちゃんたちが、会社を支えてくれた。
収入が減っても、「また仕事が来たら頑張ろう。」
そう言って待っていてくれた。
その人たちのおかげで、一番苦しい時代を乗り越えることができました。

 

だから僕は、よくこう思うんです。
この地域だったから会社を大きくできた。
そして、この地域だったから生き残ることができた。
この二つは、本当に間違いないと思っています。

丸尾

まさに会社の歴史そのものが、地域の歴史でもあるんですね。

内田直行

そうですね。
今でもOBさんたちは年に何度か工場へ集まってくれるんです。
みんなでご飯を食べながら昔話をしたり。
新工場が完成した時も、「ええ工場ができたなぁ。」って、本当に自分のことのように喜んでくれました。

 

現役の社員も、そのOBさんたちが来ると少し緊張するんですよ(笑)。
「あ、先生が来た。」なんて言って。昔の仕事ぶりを知っている先輩たちですからね。
でも、そうやって創業時代から会社を知る人たちが、今でも遊びに来てくれる。
それって、本当にありがたいことだと思います。

4「帰るつもりはなかった。」兄弟が家業を選んだ理由

丸尾

お二人とも、小さい頃から工場が身近にある環境で育ったのですよね。

内田直行

はい。生まれた家は旧工場のすぐ隣です。工場の音を聞きながら育ったと言ってもいいですね。津山高専を卒業するまでは、ずっと地元で過ごしました。

 

でも、その頃は家業を継ぐなんて全然考えていませんでした。
早く外へ出たいという気持ちの方が強かったですね。

 

津山高専を卒業後は、津山市内にある製造業企業へ就職。
設備設計や試作、評価など、ものづくりの現場で約7年間働きました。

丸尾

当時は、家業を意識することはなかったんですか。

内田直行

まったくなかったですね。
ただ、ちょうどその頃、実家では自社ブランドを立ち上げようとしていました。

 

OEM生産の仕事だけでも忙しい中で、新しいブランドをつくる。
企画も、販売も、展示会も、全部ゼロから。父も母も、本当に休みなく働いていたんです。
平日は工場で仕事をして、週末は東京や百貨店で販売会。
そんな姿を近くで見ていました。

 

「これは本当に大変そうだな。」そんなふうに思っていましたね。
それでも少しずつ、自社ブランドが形になっていく。ある日、サンプルだったか自社ブランドのジーンズを初めて履いてみたんです。

 

その時に思いました。「あれ、これ、めちゃくちゃいいな。」
うちの工場で、こんなジーンズがつくれるんだ。
その驚きが、家業を意識する最初のきっかけだったと思います。

丸尾

泰造さんはいかがでしたか。

内田泰造

僕は津山高専を卒業して、福岡県の製薬会社へ就職しました。
設備管理の仕事で、空調設備や蒸気設備、クリーンルームなどを管理していました。これも縫製とは全然違う仕事ですね。

 

実は社会人になって二年目くらいから、
「そろそろ帰ろうかな。」という気持ちはありました。
でも父からは、「まだ帰ってくるな。」と言われていたんです。

丸尾

そうだったんですか。

内田泰造

当時はまだ会社の先行きも見えていませんでしたから。
兄もいましたし、「継ぐなら長男だろう。」という空気もありました。
だから帰ってくるな、と。でも僕は帰ってきました(笑)。
ジーンズのことも知らない。縫製も知らない。ブランドづくりも知らない。
経営も知らない。本当に何も知らなかったんです。

 

でも、なぜか「何とかなる。」という根拠のない自信だけはありました(笑)。
だから怖くなかったんでしょうね。

帰ってきてから、めちゃくちゃ苦労するんですけど(笑)。

丸尾

お二人とも、まったく違う業界で経験を積まれてきました。
その経験は今につながっていますか?

内田直行

ものすごくつながっています。
前職では、設計して、試作して、評価して、改善する。
その一連の流れをずっとやっていました。

 

実はジーンズづくりも似ているんですよ。
ジーンズそのものを「設計する」とは言いませんが、
どういう仕様なら丈夫なのか。どうすれば縫いやすいのか。
機械をどう調整するか。考え方はすごく近いんです。

 

ミシンの調整なんかも、前職の経験がそのまま生きています。
現在は取締役として、そして工場長として、製品開発から生産管理、設備管理まで幅広く担当しています。

内田直行

入社した当時は、「もっと縫製に近い仕事をしておけばよかったかな。」なんて思ったこともありました。

 

でも振り返ってみると、本当に全部つながっていました。
無駄だった経験は一つもありませんでした。

 

そして泰造の方は、現在担当しているのは営業やマーケティング、広報、自社ブランドの発信です。まさに内田縫製の「顔」となる役割です。

丸尾

お二人は役割がきれいに分かれているんですね。

内田泰造

そうですね。
兄は工場とものづくり。僕はブランドづくり。

 

もちろんお互い相談しながらですが、それぞれ得意分野があります。
でも、帰ってきた当時は本当に何もありませんでした。
組織もない。リーダーもいない。目標もない。

 

みんな一生懸命働いているけれど、同じ方向を向いているわけではありませんでした。だから最初に取り組んだのは、「会社を会社らしくすること」だったんです。

 

リーダーを置き、組織をつくり、目標をつくる。
一歩ずつ土台を整えていきました。

丸尾

さきほど伺った改善提案や小集団活動も、その積み重ねの先にあるんですね。

内田泰造

そうなんです。
いきなり改善活動が始まったわけではありません。
まず組織ができる。目標ができる。

 

その上で、社員一人ひとりが考えられるようになった。
だから今の改善活動につながっています。

丸尾

お話を伺っていて感じたのは、お二人とも「家業だから継いだ」というより、「この会社には未来がある」と感じたから戻ってこられたということです。
そのきっかけが、自社ブランドだった。

内田直行

まさにそうですね。
ブランドがなかったら、工場も建っていません。若い社員も集まっていません。
そして僕たち二人も、ここにはいませんでした。
本当に、自社ブランドが会社の未来を変えたんです。

この地域だから生き残れた。地域が育てたジーンズ縫製工場。

有限会社 内田縫製
内田縫製(有限会社内田縫製)は、1969年に創業された岡山県津山市のジーンズ専門縫製工場です。国内外の有名ブランドのOEM(受託製造)を手がける一方、2016年に自社ブランド「UCHIDA HÔSEI」を立ち上げ、企画・生産・販売までを一貫して行っている。

▼後編はこちら
この地域だから生き残れた。地域が育てた ジーンズ縫製工場。(後編)

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  • 2026年7月3日
  • 有限会社内田縫製 本社工場(岡山県津山市)
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