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おもしろきこともなき世をおもしろく
前編アートインク津山インキュベーター
山田邦明
岡山県にある、アートインク津山インキュベーター 山田邦明 - 岡山県北の求人情報サイト「いーなかえーる」さんに、お話を聞いてきました。
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1取締役、インキュベーター、非常勤講師など
丸尾 |
山田さんは今、いろんなことをされていて「何をしています。」と言い切るのは難しいと思うのですが、やられていることを教えてください。 |
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山田 |
メインは西粟倉村にあるエーゼロ株式会社の取締役をしています。そこの業務はちょっと多岐にわたるんですが、ウナギ育ててみたりとか、家つくってみたりとか。地域向けのコンサルティングや、メディア事業を行っている会社です。 |
丸尾 |
エーゼロといえば、もともと西粟倉森の学校という会社でしたよね。 |
山田 |
あとは、ここレプタイル株式会社が運営するアートインク津山のインキュベーターをやらせていただいたり、津山高専の非常勤の先生もさせていただいております。 |
丸尾 |
なるほど。津山高専では何を教えられたりしていますか? |
山田 |
学科横断授業というものなのですが、4つの学科があって、各学科から何人かずつ参加する授業です。そこでのテーマは基本的には何でもよくて、今回はオープンデータを利用した、「地域課題の解決」についてでした。 今回、学生さんたちと話して決まったのは、基本的には照度問題です。「津山って暗いよね。暗いのどうにかしたいよね」って学生さんたちから課題が出てきたので、それはどうやったら解決できるの?というのを自分たちで考えて、それをオープンデータと絡めることで解決するというワークを行いました。 |
丸尾 |
カリキュラムがあるのではなく、一緒に生徒と考えていくような感じの授業ということですね。 |
山田 |
オープンデータというところだけ、今回大きいテーマがあったので、情報の収集と情報の出力ですよね。その両方ができることが前提だったら何でもよいと言う形でやっていました。 今考えているのは、太陽光とかいろいろあったんですけど、基本的には放置自転車に自発的に蓄電できる仕組みをつくって、それを各学校の入学者に配るような仕組みを考えているという状態です。この間、津山市に発表を行ったさいに新聞・テレビなどにて取り上げていただきました。 |
2地域課題を楽しく解決。グループヨンゼロ。
丸尾 |
最近活動されているグループヨンゼロはどういった感じなのですか? |
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山田 |
いろいろな考え方があるんですが、基本的に楽しく生きていきたいじゃないですか(笑)。楽しく生きてきた結果、周りの人が幸せになったらよいなと思っていて、そういう活動をしたいと思っています。そのような思いから集まったメンバーがいて、例えばこれを解決したらみんな楽しくなるよねというような、津山や岡山県北の課題を見つけて、その課題に対して何かができたら自分たちも楽しくなるよねと。 日に日に人が集まる場所の企画だったり、最近運動していないからといって運動会をやってみたりとか。あと今度はボランティアを企画しています。――でもボランティアというと、誰かのためにみたいな感がすごくするんですけど、もっと何かゲリラ的にやろうよみたいな感じで、今考えているのは、津山市阿波の“雪かき”なんです。 「雪を取る」というのが基本的には目的なんですが、行く人たちは「かまくらをつくる」という目的なんです。かまくらをつくって、「すみません、そこの雪をもらっていいですか?」という仕組みになって、かまくらで夜にライトアップしてきれいにするというのをやりたいなと思っています。そういう活動を定期的にやっています。 |
丸尾 |
雪かきといったら、雪を邪魔なもの、危険なものとして処理するのではなく、“かまくらつくる”というと、楽しいイベントになりますもんね。 |
山田 |
来ている人たちはもう、ただただ楽しめばいいかなと思っているので、そういうことをこれからもやっていきたいですね。 |
丸尾 |
おもしろいですね、普通に。 |
山田 |
そうなんですよ。おもしろいと思わないと、やっぱり人は動かないので。危機感で動かすのは、何かちょっと違うなと思います。人口減少するけど、合コンいっぱいしたいという人がいっぱいいて、結果、子どもがいっぱい生まれるみたいな、何かそういうのがしたいんですよ(笑)。 |
大人げない大人の大運動会 2016年11月開催津山市にて開催 |
3中学のころ目が死んでるねと言われ、高専を受験。
丸尾 |
なるほど。それは本質な気がしますね。山田さんは弁護士でもあって、ちょっと異色の経歴だとお聞きしています。高校が津山高専。今から考えると、何か高専っぽくない感じがありますが(笑)。 |
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山田 |
本当、何でなんでしょうね。 もうやめようと思ったのが中学2年生のときで、やめた当時、学校には行っていたんですけど、「目が死んでるね」と担任の先生に言われ、こいつは何て酷いことを言うんだと(笑)。 で、言われたから問題をやってみて、全然おもしろくなかったんですけど、解けないとイライラするから、自分で調べてやるようになったりして、反抗期で1年間口利いていなかった両親とも、ここを質問することで話せるようになり(笑)。 やっているうちに、高専の勉強に、結構ハマったし、それでそのまま入学しました。プログラミングとか、そもそもインターネットとか、当時は学校に1台パソコンがあるか、ぐらいの時代だったんですけど、確実にこれ「来る」だろうなと思ったというのもありましたし、というので入りました。 |
4日本で一番難しいと言われる試験を受けようと決めた理由。
丸尾 |
津山高専に入ってからはどうでしたか? |
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山田 |
そうですね。津山高専は一応共学なんですけど、女の子があまりいないじゃないですか。「なぜちゃんとした共学に入らなかったのか?」ということを日々ぶつぶつ言いながら過ごしていていました。 要領がよかったので、成績は先輩の過去問もらって勉強するだけで普通に進級ができていたんですけど、正直つまらなかったんで、ちょっとそろそろちゃんと何かしようかなといったタイミングぐらいで彼女ができたんです。 津山高校の子で、可愛い子だったんですけど、その子が大学受験で神戸の大学を受けるということになって、数学が苦手だというから、教えてあげたりとかしていました。その子が大学行っても続けていこうねと言った矢先・・・大学入学後、その4月20日に振られるというのがあり。そこからまた僕の人生的には低迷期に入り、また目が死んでいたらしくて(笑)。 |
丸尾 |
まだそのとき山田さんは津山高専の4年ですね。 |
山田 |
特にまだ何するかも決めていなかったんですけど、そのときに、自分はなぜこんなに凹んでいるのかと。夜中辛くて走りに出ているのかと(笑)。 |
5大学では経営を学び、ロースクールへ。
丸尾 |
高専から弁護士って、あまりイメージがないですね。 |
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山田 |
ちょっとなってみようみたいな(笑)。でも何か、どうせ苦しいんだったら、自分で選んだ苦しさの方がいいと思って。そっちで行こうと思いましたね、そのとき。そのために、当時だったら大学院まで行こうと思ったので、大学入って、大学院に行って弁護士になろうと決めて、大学受験を決めたんです。 大学には3年次編入をしました。だから大学に編入する組か就職する組かで、津山高専だったら編入する組は結構少なくて、2から3割ぐらいでしたね。他は就職という感じで。ぼくはそれで筑波大学に行きました。 |
丸尾 |
なるほど。それからは弁護士の勉強をしていたんですか? |
山田 |
弁護士という日本で一番難しい試験を受けようと決めたときに、じゃ、どうやったらそれに合格することができるのかと考えて、ロースクール(法科大学院)というところを卒業して受けるということが決まっていたので、ロースクールに入るためには大学卒業資格が必要で、大学卒業資格を得るためには、今だったら高専から編入試験をするしかないなということで、この順番で考えました。 そのときも、法律の勉強をしようかなと思っていたんですけど、結局、ロースクール(法科大学院)で2、3年法律の勉強をするんだったら、それ以外のことをやっておきたいなということで、経営工学科を選び、経営学を学んでいました。会計とか経営ですね。企業というものを数字で見たいなとも思っていたので。そういうことを学んだ2年間ですね。 |
丸尾 |
そしてその後にロースクールに進まれたということで、それが京都。京都大学の法科大学院。そこは何年ぐらい行くんですか? |
山田 |
ロースクールには既習コースと未習コースというのがあって、既習コースは法律を勉強したことがある人、未習コースはしたことがない人で、ぼく未習だったので、3年ありました。3年して卒業した年の5月に司法試験があるんですよ。だから最低でも4年か3年半ぐらいいることになって、僕1回落ちたんで、結果4年半京都にいました。 |
丸尾 |
京都のときはもう本当に弁護士の試験の勉強を。 |
山田 |
していましたね。もう絶対できないですけどね、あんなに(笑)。 集中して勉強しているときだけカウントして、例えばトイレ行くときとかは止めるし、今集中してなかったというときはちょっと戻すし、みたいなことをやって、それが10時間になるというのを1個のくくりにして、1日10時間で1,000日やろうみたいな。だから1万時間やりました、確実に。だからまあまあ、それは受かるよね、みたいな(笑)。 |
6ベンチャー企業の株式会社アカツキへ。
丸尾 |
その後で弁護士になられてということですけど、その次は? |
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山田 |
そうですね。その後1年間司法修習生というのがあって、弁護士、裁判官、検察官などの実務を見るんですけど、それを千葉でやったんですね。同時にシェアハウスにも入ったんですけど、その修習の生活で見た弁護士とか検察官とか裁判官に、まあビックリするぐらい興味が持てなくて、「これ違うな」感がすごくて。こんなことをやっている場合じゃないなという気持ちがすごかったですね。 |
丸尾 |
弁護士は、一番難しい試験をとるぞ、という気持ちだったけれど、実際の実務を見てみると、何かちょっと自分じゃないかなと。 |
山田 |
僕以外優秀な人がいっぱいいるし、その人たちが頑張っているから任せればいいやという。その後一応弁護士事務所に入りました。そこでは、一応一般民事刑事含め、全部やるんですけど、主たる業務はベンチャー企業支援でしたね。 僕が最初にやった刑事事件は、ヤクザの時計を盗った風俗嬢の事件なんですけど、「ちょっと違うな」っていうのがありました。全然それ自体は大事な仕事なんですけど、その子が親にお金とか出してもらって、「絶対更生するよ」みたいなことを涙ながらに宣言した後に、結局逃げちゃったみたいな、そういうのをみると「ああ、俺の生きる道はここじゃないなーと」。 自分の至らなさともあるんですけど、そこに僕は自分の人生を使いたいかというと、多分そうじゃないなと思ったので、そっち側は全部やめようと思って。で、ベンチャー企業支援の方に集中していきました。 その中で、筑波大学の同級生がつくった「株式会社アカツキ」という会社があって、その会社を手伝うことになったんです。そうしたらそこはすごく前向きな人たちの固まりで、その前向きな人たちが、ちょっと法律のことだったりとか制度のこととかでうまくいかなくて伸び損ねているみたいなのを見るのがすごい嫌で、これ何とかしたいなと思って、そこに転職したんですね。 |
7株式会社アカツキのIPO(株式上場)
丸尾 |
株式会社アカツキはゲームの会社ですよね。 |
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山田 |
そうです。最近だったらいくつかヒット作も出しているので、よかったらみてみてください。 |
丸尾 |
アカツキはその後上場することになるんですけど、当時はどのくらいの段階だったんですか? |
山田 |
僕が関わるようになったのは、20人ぐらいの時でしたね。 |
丸尾 |
弁護士として入社されたということなんですか? |
山田 |
そうですね。法務業務を最初やりました。ただ、僕自身も経験が少なく、いろんなところに聞きながらやっていきました。契約書のチェックとか、社内規定とかもですけど、つくっていったというのが最初です。 |
丸尾 |
その後、IPO(株式上場)になると、それだけ法務の仕事もめちゃくちゃ増えてきますよね。 |
山田 |
そうですね。ただ、どっちかというと、法務の仕事はルーティン化できたんですよ。こういうふうにやればいいという形にはできたので、そこは早目に手放し、他の方に任せていきました。そんなかIPO(株式上場)のための業務だけを集中してやるタイミングが来て、それは基本的には証券会社さんと監査法人さんと、財務局とかいろんな関係者がいるんですけど、その人たちの調整と、その人に出せと言われる資料をつくるというのがIPO(株式上場)の担当業務でした。ただただそれだけをやっていました。 |
丸尾 |
そのIPOの担当というのは、部署には名前がありますか? |
山田 |
「SAT」というチーム名でした(笑)。警察の特殊急襲部隊 (Special assault team)みたいな感じで。今思えば恥ずかしいですけど(笑)。 |
丸尾 |
いえいえ(笑)。上場を経て、その後、地元である津山に戻ってこられる形なんですよね? |
山田 |
そうですね。上場して戻るまで、結構フラフラしてましたね。やめることは早目に言っていたんですが、その後何をするかはあまり考えていませんでした。 すごくいい会社だし、メンバーもすごい気持ちのいい人ばかりで、それをつくっている文化自体もかっこいいなと思ってましたし、ただ単に居心地よかったんですよね。ただ、ここまでは、いい意味で流されて生きてきたので、一回ゼロリセットしたいなと思いました。 今持っているものは、いろいろな人からもらったものだったりがいっぱいあるんですけど、弁護士とかもそうですし、ベンチャー企業のIPOしましたみたいな、そういういわゆる成功体験みたいなやつを全部一回なしにして、結局何か残したいものはないかなと思ったときに、友達と家族とかというのと同列ぐらいに地元というのがあったんですよね。。 だからちょっと帰ろうかなと。ただ、そのときはまだ何も決まっていなかったですね。生きていけるのかみたいな。だけど実家に住んで、維持費がほぼゼロになれば、今の貯金で1年ぐらいは生きていけるだろう、みたいなことを思って。最悪その1年間何もならなかったら、東京にもう一回就職しにこようと思ったので、そんなに怖くなくて、一回やめようと思ったのがそのときですね。 |
おもしろきこともなき世をおもしろく