[Uターン・Iターン・移住]いーなかえーるは、岡山県北の求人情報をご紹介します
たくさんの人が、家具をとおして森にかかわれる
木工房ようび
大島正幸
岡山県にある、木工房ようび 大島正幸 - 岡山県北の求人情報サイト「いーなかえーる」さんに、お話を聞いてきました。
index
1はじめに
丸尾 |
カエール人編集部 丸尾宜史 (以下、丸尾) |
---|---|
大島 |
大島正幸(以下、大島) |
丸尾 |
岐阜で家具職人としてスタートしたのですね。 |
大島 |
大学の建築学科を出た後、岐阜県で2年間、無給で家具づくりの技術を学べ“丁稚奉公”をさせてくれるところがありまして、そこで技術を学びました。その後4年半くらい飛騨高山で家具デザイナーと家具職人をしていたんです。 |
220歳での挫折。それがきっかけで家具の道へ
丸尾 |
もともと家具をつくろうと思ったきっかけは、なにかあったのですか? |
---|---|
大島 |
まず、実家が家も建てる土建屋さんでしたので、職人に囲まれて育ったということが一つあります。 |
丸尾 |
なるほど。職人さんを見て育ったのですね。 |
大島 |
そうして職人さんを見て育って、大学の建築学科に入って20歳のときに図面を描いたんです。 |
丸尾 |
そうなんですか(驚)やはり線をモノにしていくことは簡単にはできないんですね。 |
大島 |
実家の仕事も見ていましたし、家をつくるのは本当にたくさんのお金がかかりますし、生涯にわたる財産をつくることです。 |
丸尾 |
その時の挫折が、分岐点でもあったのですね。 |
大島 |
実家の仕事を継ぐか、別の道に進むか考えました。 |
3西粟倉“百年の森林構想” 、日本の森をはじめて見た
丸尾 |
ヒノキで家具をつくろうと思ったきっかけはあったのですか? |
---|---|
大島 |
西粟倉村の“百年の森林構想”を西粟倉・森の学校代表取締役の牧大介さんにお聞きしたのがきっかけです。 |
丸尾 |
もう少し詳しくお聞かせいただけますか? |
大島 |
普通の家具職人って、お金で材料を仕入れてそこからどうデザインして・・・というような仕事なんです。 |
丸尾 |
確かにそうなるのかもしれないですね。 |
大島 |
ぼくも家具をつくり始めてから7年くらいたって、“百年の森林構想”を聞いてこっちに足を運ぶまで、日本の森がこんなに荒れているなんて知らなかったんです。山が荒れているって、そんなことは遠い外国の話かと思っていたのですが、実際は本当に近くの山が荒れていると知りました。 |
丸尾 |
森が荒れているとはどういうことなんですか? |
大島 |
山が飽和状態になっているということです。木がたくさんありすぎて密集しすぎている状態です。そうなると間引きをして行かなくてはならないんです。 |
4ヒノキの家具は、普通につくると壊れます(笑)
丸尾 |
なるほど。でもヒノキは家具にはむいていないと言われていますよね? |
---|---|
大島 |
普通はもっとかたい木でつくります。ヒノキの家具が今までなかった理由は、もともと家具の技術が西洋で生まれているからでもあるんです。でもヒノキはほぼ日本にしか生えていません。だから素材と技術がミスマッチしているんです。 |
丸尾 |
今までの家具をつくる技術自体が、ヒノキという素材に合ってなかったのですね。 |
大島 |
そうです。ヒノキ家具を西洋の技法そのままでつくると壊れてしまいます。初めは1年半くらい研究でした。 |
丸尾 |
たしかに、強度も必要ですし、デザインも必要ですよね。 |
大島 |
そしてもう一つヒノキ自体が昔からそんなに多かったのかというと・・・戦後、今から50年前に一斉植林したので、“今だから”たくさんあるんです。昔からそんなにたくさんあったのではないんですよ。 |
5ヒノキの家具を通して、ド田舎から海外へ!
丸尾 |
ヒノキは、家具の面から見て良いことはどんなことがあるのですか? |
---|---|
大島 |
家具の面からみるとまず軽いです。異常なほど軽いです!だから女性とかお年寄りに優しい。 |
丸尾 |
湯郷の方の温泉宿泊施設の家具にもこちらのヒノキの家具が一式入っているそうですね。 |
大島 |
このあたりの施設などで使っていただけるのは嬉しいですね。旅館さんで使うと空間が明るくなるんですよ。白いからとても清潔感があります。 |
丸尾 |
それは素晴らしいですね。最近では海外でも取り上げられていますしね。 |
大島 |
そうですね。海外からも問い合わせが増えてきています。でも英語がちょっと苦手で(笑) 会社としては、ド田舎から海外に売っていくことを中間目標にしています。 |
6人生がより楽しく、より挑戦的になった
丸尾 |
飛騨高山から岡山県北、西粟倉村に来られるきっかけも“百年の森林構想”を聞いたことだったのですね。 |
---|---|
大島 |
そうです。西粟倉・森の学校の牧大介さんから聞いたことがきっかけです。もともとは妻と牧さんが大学のころからの知り合いで、実は妻のほうが山の取り組みを始めたのは早いんですよ。そのとき僕はついていって森の現状を見て、聞いてショックを受けました。 |
丸尾 |
それが大きな転換となったのですね |
大島 |
なんかすごい夢があるじゃないですか?家具をつくるときれいな風景ができて、お客さんも喜んでくれるって。ここ西粟倉村でやりたいなと思いました。その日に牧さんに西粟倉に来たいことをつたえ、次の日に前の会社に辞表をだしました。 |
丸尾 |
あらためて、西粟倉村に来られてよかったことはなんですか? |
大島 |
人生がより楽しく、より挑戦的になりました。いろんな人に出会えますし。ようびという工房は、明るい工房を目指しています。 |
丸尾 |
確かにそんな印象があるかもしれません |
大島 |
“頑固でいい”と言われますけど、実は“つくり手から押し付けているだけじゃないの?”と思ったりもします。ウチの職人さんは“ホスピタリティのある家具職人”を大事にしていています。人が来てくれることが本当にうれしい。一緒にご飯食べたりとかしますしね。 |
丸尾 |
とても素晴らしいことです。たくさん人が来られるようですね。 |
大島 |
工房には毎月たくさんの方が来てくれます。出会いも楽しいですし、ヒノキ家具というチャレンジが始まって今でも毎日が研究なのです。“よりキレイに”だとか、“より美しい”とか、“よりシーンに合う” 物が研究の中でうまれたり、これからお披露目もできると思います。 |
7ただ家具をつくるのではなく、やがて風景になるモノづくり
丸尾 |
これからもすごく楽しみですね。 |
---|---|
大島 |
ただ家具を、ルーティーン的にたんたんとつくるのではなくて、自分たちが何かに気づき、何かをつくりだしていく。 |
丸尾 |
それが先ほどおっしゃった挑戦的になれるというところなんですね。それでは最後になるんですが、大島さんが普段から大切にされていることはなんですか? |
大島 |
日頃思っている姿勢としては、伝統工芸などをいかしているんですが、「守る技術から、求められる技術へ」。つまりお客さんが豊かになって |
丸尾 |
大宴会ですか?(笑) |
大島 |
ワンピースみたことあります?あれ敵も味方も戦いが終わった後、見開きで大宴会してるじゃないですか?あれがやりたいんです(笑) |
たくさんの人が、家具をとおして森にかかわれる
取材に対応いただきありがとうございました。同年代の経営者でもあり職人でもある大島さんにとても多くのものを学んだ気がします。大島さんは飛騨高山から西粟倉村にIターンのかえーる人でした。
- 撮影日:2014年5月29日
- 取材地:木工房ようび