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ここ津山にこだわった、家具づくりを。

後編株式会社すえ木工 代表取締役社長

須江 健治

津山市

株式会社すえ木工の代表取締役社長

須江健治さんにお話を聞きました。

 

#ものづくりの本質

#帰る場所があるということ

#時代変化に対応

#繋がるクリエイティブ

#この場所にこだわる

 

index

4新卒であえて大手ではない住宅会社に就職したら・・・

丸尾

それでは後編です。
前編はこちら>株式会社すえ木工 代表取締役社長 須江健治(前編)

丸尾

須江さんご自身は、お生まれは津山ですよね。幼少期はどのような感じでしたか?

須江

僕は、子供の頃から職人さんが身近にいました。家で職人さんが集まってご飯食べていたり、そういうのがあたりまえで、徒弟制度じゃないけど、常に周りに人がいるような環境でしたね。誰かしら家で集まって、わいわい、がやがや飲んでる感じで(笑)。そのときのおられた方が今もいらっしゃいます。長いですよねお付き合いが(笑)。本当にガキの頃からですよ!?

丸尾

ちょっと普通ではない環境ですね!?その後は進学などで外に出られたのですか?

須江

そうですね。高校を卒業後に関東の経済学部の大学に行きました。
実は高校のとき、美大とか芸大などに行きたかったのですが、家業の経営をして欲しかったみたいで、親はそういうところを勧めなかったし、僕もあまり勉強していなかったので、親の顔色を伺いながらとりあえず行けるところに行った形になりました。そんな感じで大学に通う4年間は、色んな社会経験をさせてもらって、どちらかというと勉強より社会勉強でした(笑)。

丸尾

大学を卒業後は、就職したのですか?

須江

家が家具屋なので、住宅系の会社に就職してみようと思い就職活動をするのですが、全く大手企業に行く気がなくて・・(笑)。結局東京の郊外にある尖った感じのイタリアン輸入住宅を建てる会社に、あえて入社してみました。どうせならこういうところがおもしろいなと思って。

 

入社したらものすごい鬼のような研修を半年ぐらい叩き込まれて、それはそれでよかったんですけど。親が「大手企業に行っておきなさい」と言った意味がよく分かりました、1年ちょっとしたら、その会社が倒産してしまいました(笑)。

 

僕は営業として入社したのですが、気がついたらなぜか現場を担当するようになったり現場に資材を配って回ったり。現場監督みたいなことも途中からやっていて、「あれ?おかしいな?」と思っていたのですが、だんだんと職人さんも現場にいなくなって、最後、大工さんと僕の2人で家を作っていました。そうこうしているうちに、社長がどこかにいなくなって会社が倒産しました(笑)。こんななくなり方をするんだという感じで・・。そして会社がなくなったあとは友達の家を転々としていました(笑)

5“ものづくりはインパクト”創業者おじいちゃんの記憶

丸尾

ある意味すごい経験だと思うんですけど。(驚)その後は戻ってこられたのですか?

須江

その後、半分は家業を手伝って、もう半分は大阪の企画デザイン会社に行きました。ずっとデザイン関連をしたかったので。
そこで、あるベテランのデザイナーの方と仲良くなったのですが、いろいろ連れていってもらう中で、家具職人の浜田由一先生という方に出会いました。この方はハンス・J・ウェグナー(北欧の家具の巨匠)の家具などのミニチュア模型を、本当に完璧につくる方なのですよ。キャスターとか編み込みなどもすべて完璧に。

 

それに感動して、「先生、僕、これがやりたい!」と言いました。そうしたら「飛騨高山の飛騨国際工芸学園で、模型をつくる講義を持っているから、そこにおいでよ」と言われて、その学校に2年間行きました。

丸尾

そこで、ものづくりを学んだといいますか、家具などをつくられていたのですか?

須江

そうですね。その学校は木工芸と、陶芸と、染色があったのですが木工芸を一から習いました。そこの教育理念が「ひとりよがりのデザインをしない」というコンセプトで、「デザイナーと職人のどちらの言語も理解ができて、それを翻訳できる人がこれから必要だ」という教育を受けて取り組んでいましたね。

すえ木工本社工場に立つ大きな社名看板
丸尾

もともと須江さんご自身がデザインやものづくりがお好きだというのは、なにかきっかけがあったのですか?

須江

そうですね。ルーツでいえばやっぱり創業者でもある、おじいちゃんです。本当にとんでもない“ものづくり人間”でした。まだ幼稚園や小学校低学年の頃に、帰りにおじいちゃん家の前を通ると、その度に「何かつくっている」んですよ。家具、いす以外にも急に茶室ができていたり、そのうちお城をつくっていたり・・・。

丸尾

お城!?(驚)

須江

ある日突然、おじいちゃん家の前に、お城の天守閣ができているんですよ!「何かすごいものをつくっているな!?」と思って。破天荒というか、私の中ではすごくインパクトがあって、何でも「自分でつくるってすごいな」という刷り込みだけはあったんですよ(笑)。ものづくりはインパクトだなといまだに強く思っています。

丸尾

飛騨高山の学校では、どういう感じだったのですか?

須江

在学中2年間、これからは技術を身につけて自分でやっていきたいと思いながら、休みもなく昼夜問わず、ものづくり好きな友達とずっとつくり続けていました。そしてある時、展示会に展示していた僕の卒業制作をすえ木工の人たちが見にきたわけですよ。

 

そして「これだけできるんだったら、すぐ家に帰ってやりなさい!」と、そんなつもりではなかったのに、首根っこをぐっとつかまれて連れて帰られました。

家具をメインに製造する、すえ木工本社工場、現在の風景

6一旦戻るも、家を飛び出した勢いでそのまま海外に

丸尾

こちらの会社に戻られてからは、どういう感じで今に至るのですか?

須江

帰ってきて、「商品企画をしなさい」ということでいろいろと家具開発しました。パッケージ商品としてコンセプトから部材のディテール、カタログ作成や売価の設定まできちんとつくり込みました。ロフトでも扱ってくれたのですが、その時ロフト渋谷店の全商品の売れ筋トップ10に入るほど売れた商品もありました。会社からも続けて次々開発しなさい!みたいな感じになりました。ただ僕自身はだんだんと「これでよいのか・・・?」と思いだして、3年か4年やったあと、ちょっと一回離れようと思って離れたんです。

丸尾

そうなのですか。なにか燃え尽きたような・・・。

須江

そうですね、消耗するばかりのものづくりに何のために仕事をしているのか分からなくなってしまって、家を出て、友達の家を岡山、京都、名古屋、そして東京まで転々としていきました。一通り東京まで行ったら、「やっぱり海外行こうかな」と思って、そこでタイのバンコク行きのチケット買って、思い立った勢いで朝一の飛行機で飛んだ、みたいな(笑)。

丸尾

そのまま海外ですか!?(驚)

須江

でも結局、海外についても、怖くて、何をしてよいやらで・・・。
何も情報なかったので、安宿に1週間ぐらいこもって、ひたすら「怖い、怖い」と思っていたのですが、だんだん慣れてきて、通りを歩いたり、地元の子供と遊んだり、行動範囲も広げて、日本人いる宿とかも分かってきて。ガイドブック『地球の歩き方』を見たらだいたいのことが分かるんですよね。

 

コツが分かってきて、日本人がいるレストランに行けば情報収集できて、動けるなみたいな。そこで友達になった人と、隣の島まで行ってみようとか言って、ツアーで行って帰ってきたり、少しずつ動き出したんですよ。そしてずっと南下して、島も行きながら東南アジアにも渡って、いろんな人と会いながら最後バリ島まで行ったのですね。そこまでいったらもう先がないんです。

 

そして、「やっぱりここまで来たら、インドが気になるな」と思い出して。ちなみにここまでにもう3カ月程度かかっていました。でも「どうしてもインドが気になる」ということで、知り合った友達とまたバンコクまで北上して、インドに渡りました。

7散々な目に遭いながら、世界を見て回った

丸尾

ついにそのままインドまで!?(驚)

須江

インドのカルカッタに着いて、インドに来たから「ブッダが悟りをひらいたブッダガヤに行って、ちょっと菩提樹のところでのん気に写真でも撮ろうかな〜。」と思っていたら、ブッダガヤに着いた途端に、見知らぬインド人に「お前をツアーに連れていくから」とバイクに乗せられて、そして家の中に閉じ込められて、「ブッダガヤに行くんだったら500ドル払え!」みたいな・・「俺のランドクルーザーで連れていってやるから!」みたいなことを言われて、「そんなの行かん!」「僕らをここから出してくれ!」と言って(笑)。2日間の軟禁状態から解放されるために少しだけお金を払って原付で連れてってもらう交渉をして、地球の歩き方に載っているブッダガヤとは明らかに違うブッタガヤに案内されて(笑)、もう早く逃げようと思ってブッダガヤもすぐに出たんですよ。

 

それからも、どこに行ってもとんだ目に遭いながら、夜行電車で聖地バラナシに着きました。ガンジス川が流れているのですが、着いた電車からとび降りて、「早朝気持ちがええ!」と走って、バックパックもそこへ投げてガンジス川に飛び込みました。「ついにガンジス川に着いた!」と思って泳いでいたら、インドの人がジェスチャーで「口を閉じろ!」と言うわけです。「何かあるのかな?」と思って、一応口を閉じて泳いでいたのですが、後から考えると「ここの水飲んだらヤバいぞ!」みたいなことだったようです。それで案の定病気になって、それから3週間ぐらい寝込みました(笑)。

 

それから何ヶ月かしてデンマークに渡り、スウェーデン、ドイツ、イタリア、スイス、プラハなどに行き、紆余曲折あり最後に京都のお寺で1年半の間修行をして帰ってきました。

8“帰る場所があること”がよいとはじめて思えた瞬間

丸尾

相当なアドベンチャーですね(笑)それから戻ってこられたんですか?

須江

そうですね。京都のお寺修行を1年半ぐらいして、その後少し休みをもらえて1週間ぐらい空いたので、ちょっと津山に帰ってみました。

 

そうしたら僕が子供の頃に周りにいた職人さんの1人に「うちに来い」と言われました。その職人さんの家のこたつに入って、ラーメンみたいなものを10人ぐらいで囲って食べて、そこには昔からの職人さんも何人かおられました。

 

そんな感じで囲まれて「もうええかげん帰って来てくれんか」言われました。その時修行をしていた道場で3年間の修行が終われば、紫の衣が着れるんですよ。そして岐阜のお寺をもらえる事になっていたので、そこで暮らそうかくらいに思っていたのですが、親ではなく職人さん達に囲まれて「帰って来て欲しい」と言われたので、はっとしました。

 

「行雲流水」という言葉がありますが、その時はまさに雲水と言われる修行僧の身でもあり、昔からお坊さんは国をまたいでずっと修行の旅をしていたみたいですが、もうアドレスがないのが当たり前というか、日本に帰ってきてからも、以前にもまして旅人みたいな感じになっていて・・・。でもそのときに「帰る場所があるっていいな」と思ったんです。そういえば「自分にもルーツがあった」んだと。

 

自分の中に家業や家に対してのしこりがあって、故郷に対しても暮らすのは「ここではない」とネガティブに思っていたけど、そこをもう一度よく観察してみると、世界中で帰る場所は「ここしかない」という感情が生まれました。みんなに囲まれてまでそう言ってもらえる場所があるのだから、とてもありがたいことで、だったらもう「出ていけと言われても出ていかないぞ!」ぐらいの覚悟でやってみようと決めたんです。それが16年くらい前のことで、今ここに残っているきっかけです。

すえ木工本社工場の脇を走るJR姫新線踏切歩道からみた風景。

9津山青年会議所の理事長も務めた

丸尾

現在は、すえ木工の代表をされていますが、さらにそれから転機となることなどはありましたか?

須江

そうですね。その後、小学校のときの同級生から、「JC(青年会議所)に入るから、一緒に入ってくれ!」と相談されたのです。不安だから一緒に入ってほしいと。そんなの面白くなさそうだし、ずっと断わっていたのですが、僕の父親もJCで活動していたのを知っていたし、やらずにいて「どうせJCやこーは」とか「自分には合わんけん」とかいうのは卑怯かなとだんだんと思うようになり、逃げるのをやめて津山青年会議所に入りました。

 

8年くらいJCで活動したのですが、初めは全然きちんと取り組んでいませんでした。転機は、岡山ブロックの役員になって、東北の復興支援活動の委員長をさせていただいた事です。それが2012年(2011年が東日本大震災の年)でした。地元の浪江JCの方々に、岡山県内各地のJCメンバー45人を福島県の警戒区域エリアに防護服で案内していただき、岡山からできる支援をディスカションさせていただく事業を行いました。

 

その事業で出会った、会津JCで福島ブロックの会長をされていた、すごく尊敬できる、大変お世話になっていた方に、「JCやるんだったら理事長までやった方が絶対いいよ、やれるならあの苦労は経験しとくべき」と言われたのです。その言葉がずっと心に残っていました。

 

それがきっかけで復興支援活動も行って、しばらくして津山JCの理事長選出にお声がけをいただいて、どうせやるんだったら、大変だろうけど理事長の経験をやってみたい、お世話になっている仲間にも何かお返しもしたいと思い、「やります」といいました。

 

全然実力もないし、歴代理事長はすごい人ばかりなんですけど、チャレンジで清水の舞台から飛び降りるじゃないけど、それぐらいの覚悟で「どないなってもええわ!」と思ってやってみたんです。JCの運動や活動をしたあの8年間は、沢山の人に出会わせていただき、厳しかったですが本当に貴重な経験で育ててもらいました。そのおかげで今、なんとかやっていられるように思います。

10楽しむ空気感さえあれば、どんどん繋がっていく

丸尾

新型コロナ感染拡大が起こり、なにか変化はありましたか?

須江

もともと僕たちはものづくりが仕事であり、コロナ禍で余計なものがハッキリとし、実際にやりたいことができるようになってきたと感じています。

丸尾

実際にやりたいことができるようになってきた、というのは?

須江

新型コロナウイルス感染症の拡大で接客ができなくなり、メインで販売していた家具業界の販売店さんがクローズしてしまいました。本当にいろんな変化がありました。

 

しかし、壁面収納事業でオーダーメイドに特化した工場を整えてきたので、元々力を入れたいと思っていた住宅業界や、コントラクト(施設向け)やリフォームなどのお客様への販売を広げることが出来ました。また、壁面収納だけでなくトータルで住空間を提案できるモノづくりを進めること出来ました。ユーザーに近い目線でのアプローチを進めていくことで今まで聞こえてこなかったユーザーの声も届くようになってきました。今回の騒動は大変苦しみましたが、会社のルーツをもう一度紐解き、そこから次の一手を打つことが出来た、良い時間であったと思います。

丸尾

コラボで家具などを制作されているブランド「ANDLIFE」の活動については、どうですか?

 

「ANDLIFE(アンドライフ)」 異業種、企業コラボで、プロダクトを企画制作し提供。「豊かな生活」を提案するものづくりチーム。

須江

今「ANDLIFE」のショールームが、津山市城東地区の「すえひろビル」の2階にあるんですけど、ANDLIFEでいろいろ活動していくと、結構いろんなところからもお声掛けいただくようになりました。そのお陰で考え方や視座が大きく変わりました。すえ木工だけをやっていたら、この感覚はたぶん持てていないと思います。ANDLIFEがあったので、いろんな会社さんとも、いろんな異業種さんともコラボができています。そして「ANDLIFEに声をかければ何かできる」いう感じの、モノづくりの受け皿的な存在になってきています。

 

ANDLIFEの活動で学んだのは、楽しむ空気感があれば、いろいろつながるという感覚です。これからも活動していきたいです。

津山市城東地区のすえひろビル2FにあるANDLIFEショールーム。
丸尾

また、メディアでもよく取り上げられている「ミマサカサウナ」の取り組みも、とても興味深いです。

須江

津山家具のデザイナーの方が、フィンランドに留学経験があるいうことで「テントサウナ作りたいんですよ」みたいな話になって、そのときにみんなが、「鉄工所もいるし、テントもできるし、木工もあるし、できるんじゃない?」みたいなノリになって、「ミマサカサウナ」の取り組みがスタートしたんです。

 

テントサウナはどこにでも持ち運びができるので、好きな場所でサウナに入って、水風呂で締めて外気浴ができるんです。このサイクルを数回繰り返すと段々と脳みそのシワが無くなってきて、幸せな気分に包まれるんです。そうなると人にもやさしくなれる。ミマサカサウナで沢山イベントを開催して、ニヤニヤ歩く人を増やしていきたいです。

 

「ミマサカサウナ」 テントサウナやサウナプロダクトを企画制作し提供。岡山県北に位置する美作の豊かな自然をベースに、自然やものづくり、食などの魅力をテントサウナを通して発信。

ミマサカサウナ。岡山県北の魅力をテントサウナ通じて発信

11『日日是好日』日々を一生懸命、そして楽しく

丸尾

最後に須江さんご自身が大切にされている言葉をお伺いできればと思います。

須江

いろいろあるのですが・・・。禅寺で修行していた際の老師が、福島慶道さんという大先生なのですが、その方の言葉「バカになれ」です。

 

老師の言葉の意味をまだまだ理解できていないですが、臍下丹田でものを見るような、フル回転の状態でもじっと立っているように見える独楽のような、そういう感覚の「バカになれ」みたいなのもあるだろうし、何事にも一枚になって「チャレンジしなさい」みたいな意味もあるのかなと思っています。頭で難しく考えて、うまく動けなかったりすることがあるので、あえて「バカになれ」という言葉を意識しています。

 

あとは「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」ですかね。今日が一番若い日なので、精一杯、楽しく暮らしていきたいと思っています。実は「日日是好日」は、親父が手帳に書いている言葉なんです。苦労人の親父がいつも元気で朗らかなのは、こんな心構えからなのかなと。色々と大変なことや苦しいことはありますけど、「日日是好日」で在るという、全てのことに、先ずは、感謝の気持ちから入っていける事は、すごく素敵な、豊かな人生になる第一歩かなと思っています。

ここ津山にこだわった、家具づくりを。

株式会社すえ木工

今年で創業76年を迎える、家具製造メーカー。壁面収納家具を中心に、一般家庭向けの家具や県産材を使用した学校・施設向けの別注家具等、オリジナル製品の企画・製造・全国販売を行う。

また平成4年からは、家具の塗装技術の活用から、別業種であるRIM事業部を立ち上げ、建農機の外装パーツ、住宅用の浴槽パン等といった、特殊大型プラスチックの成型・二次加工から塗装までの一貫生産を行なっている。

お話を聞かせていただきありがとうございました。ここ津山の工場での製造にこだわり、創業から時代に合わせたものづくりを行って来られており、ものづくりへの強い思いをお聞かせいただきました。また(かなり長期間!?)世界を旅されたことで、「帰る場所があることも良いこと」であると心境変化についてお聞きしとても共感しました。工場や工場周辺もご案内いただき、自然や、地域風景に溶け込んだものづくり現場を見させていただきました。須江さんは、東京から、飛騨高山、そして世界からUターンで、ここ津山でものづくりを考え続けるかえーる人でした。

 

 

  • 取材日:2021年10⽉28⽇
  • 撮影地:株式会社すえ木工(岡山県津山市)
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