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本当にちょっとのことでいい、よかったなとか、楽しいと思える瞬間を大事にする

前編株式会社西粟倉・森の学校 

井上達哉

西粟倉村

岡山県にある、株式会社西粟倉・森の学校 井上達哉 - 岡山県北の求人情報サイト「いーなかえーる」さんに、お話を聞いてきました。

index

1はじめに

丸尾

それではよろしくお願いします。

井上

よろしくお願いします。

丸尾

まず、井上さんの森の学校でのお仕事について教えてください。

井上

はい。私は今は暮らし創造部という部署を受け持っています。
簡単に言うと、“お客さんが主体的に暮らしをつくるお手伝いをする”ための部署です。

抽象的な表現になるんですけど、森の学校は製材業をやっていまして、この周辺地域の杉とかヒノキなどの間伐材を扱っています。

自分達で商品を作るというよりも、どうやったら暮らしがおもしろいかとか、豊かにできるかの提案をする部署です。例えば床材とか、壁材などで、ノウハウを一緒に提案したりしています。

丸尾

はい。私は今は暮らし創造部という部署を受け持っています。
簡単に言うと、“お客さんが主体的に暮らしをつくるお手伝いをする”ための部署です。

抽象的な表現になるんですけど、森の学校は製材業をやっていまして、この周辺地域の杉とかヒノキなどの間伐材を扱っています。

自分達で商品を作るというよりも、どうやったら暮らしがおもしろいかとか、豊かにできるかの提案をする部署です。例えば床材とか、壁材などで、ノウハウを一緒に提案したりしています。

井上

そうですね。まず間伐材自体が使われないと地域の林業が回っていかない、経済的に成り立たないという問題がもともとあります。

以前から西粟倉村としても、荒れた森を守っていくために、自主、自己財源などを使いながら間伐を行っていってるんです。しかし、ただ切るだけでは豊かになるわけでもなく、地域の材料なども買い支えることはできません。

丸尾

ただ切っていくだけでは、それ以上は価値が生まれないということですね。

井上

かつ以前までこの村からは、丸太しか出てなかったんですよ。
結局、丸太しかないということは、最終的にお客さんの所に行っても、どこの木が使われたのかわからないんです。そして地域で家具をつくりたいとか、雑貨をつくりたいとなっても丸太しかないとそもそもつくれないじゃないですか。

だから、この地域の木材産業を作っていく上で、基盤になるインフラ業として森の学校をつくったんです。西粟倉の中で加工を行うことで地域に雇用を生むこともできます。

2学生時代は日本の林業というより森全体のことに興味があった

丸尾

井上さん、もともとご出身はどちらですか?

井上

出身は広島県の福山市です。

丸尾

出身は広島県福山市で、そこからどちらに出られたのですか?

井上

大学の時に愛媛に出て、その後大阪で就職しました。
大阪が本社の会社なんですけど、全然林業とは関係なくてリサイクル関係の会社でした。

丸尾

当時そういったリサイクル業界は注目度が高かったのでは?

井上

そうなんです。僕がいた時にちょうど再編の時期というか、洞爺湖サミットなどもあり、エコはすごくテーマだったんですよ。
せっかく大学でも勉強もしたので、本当は林業で就職したいなと思っていたんですけど。でも探したんですけど当時いいところを見つけられませんでした。

丸尾

大学で学ばれたことも、林業の分野だったのですね?

井上

そうです。学部は農学部で、森林資源学科という学科でした。
森が好きな人たちが集まるっていうマニアックな(笑)

丸尾

森好きな人達・・・(笑)

井上

森好きな人が集まるコースにいたんですけど、学生のころは僕はあんまり日本の林業というより森全体のことが好きでした。生態系とか、保全とか、そういったことが好きだったんで、半年くらいインドネシアにいきました。

そこで熱帯雨林の破壊についてとか、森林火災が起こったりとか、じゃあもう“現地に行って研究しよう” 半年間くらいいました。
現地で植樹するための苗をどうやって地元の人達が生産できるかという研究などをしていました。

3林業は難しいと言われる。でも”無理ではない”と思っていた

丸尾

そして卒業をして大阪の企業に入られたのですね。

井上

研究系だったのもあり、林業分野はいい就職先ってないんですよ。友達とかは公務員なったりする人が多いんです。でも僕は起業したいっていう思いがありました。
だったらベンチャー企業にいって、本当にゼロから10までやらしてもらえるような所のほうが自分にとって、勉強になると思いました。

大阪の会社に入って、次の年にはもう東京営業所を起ち上げるという話になり、「じゃあ、行きます!」と言って、二年目から東京に行かしてもらいました。

丸尾

それから東京にもいらっしゃったのですね!?

井上

「東京!やった!」って。東京で一年間その営業所のたちあげもやらせてもらいました。牧(西粟倉・森の学校代表、創業者)に出会ったのもその時期です。

丸尾

東京に住まれていた時期に出会われたのですか。

井上

そうなんです。東京に行く理由の1つは大阪に比べて情報がたくさんあることでした。もともと林業でビジネスをやりたいと思っていたんで、大阪にはあまりなかったです。そういった人脈とか、例えばそういう人達が集まるセミナーなども。

丸尾

やっぱり東京のほうが多いんですよね?

井上

めちゃくちゃたくさんあります!仕事とかやりながらたくさん行きました。2008年に牧(西粟倉・森の学校代表、創業者)に出会いました。8月の林業塾という講座です。林業塾は、年に一回、三重県の尾鷲(おわせ)で速水林業という日本で屈指の林業家の方が開催している5日間の合宿です。

丸尾

合宿ですか?!

井上

今もやっていますけど。またマニアックな人達しか来ないですよ(笑)
その林業塾で牧に出会って“こんな変な人いるんだな”って思いました(笑)

丸尾

林業に進むということは、簡単なことではないですよね。

井上

それまでも、その時も林業は難しいということを勉強しました。なかなか儲からないし、高齢化、材料が安いなど、色々な問題があって解決するのは難しいということも。でも難しいと言っても“無理じゃない”と思っていました。僕みたいに林業をやりたいと言う若い人もたくさんいましたし。

丸尾

やはり、そうですよね。

井上

だから若い人たちが地方に行って、難しいのであれば、林業に限らず複合的に農業なども含めて総合的に地域に若者が来れるような情報提供とか、人材バンクみたいなのができないかなと思ってその時に提案をしていました。

そうしたらその時、ちょうど牧も同じ考えで、林業だけじゃ無理だから地域の魅力や価値をあげていく方向性で考えていくという話をしたのを覚えています。

4“林業に夢はない!”でも“林業は夢を見ることはできる!?”

丸尾

その合宿がその後の大きなきっかけとなったのですね。

井上

その合宿で一番記憶に残ってたのが、速水亨(はやみとおる)という尾鷲のその林業の会社の代表の方の言葉です。300年くらい続く林業家ですごく憧れの人なんですけど。

その方に色々現状のことや、これからのこと、自分がこの業界に入るにはどうしたらいいか、という話を相談などもしてたんですけど、そこで言われたのが、“林業には夢はない!”

丸尾

林業には夢はない!?(驚)

井上

お前ら若者が“林業やりたい”って言ってくれるのはありがたいけど、残念ながら儲からないし、“林業に夢はない”ただし、“林業は夢を見ることはできる!”と言われたんですよ。

たしかに僕がもともと林業が好きだったのも、こんな尊いビジネスはないなと思っていたからです。植えた人が必ずしも恩恵を受けられるものじゃないじゃないですか。次の世代のためとか。

丸尾

すぐに恩恵があるものではないですよね。

井上

そう考えたら今、間伐しなきゃいけない森がたくさんあって、社会システム構造自体がもううまくいってなくて、どう考えてもやっても補助金でしか食えない状態だったとしても、自分達が新しいことをすることでもしかしたら“次の世代には、いい林業の形とかシステムが受け継ぐことができるかもしれない”と思っていました。

5あの林業塾から三ヶ月後、森の学校創業者との再会

丸尾

それでは、林業塾が終わって、東京に戻られてからは。

井上

帰ったんですけど。頭の中は林業でいっぱいで、どこでやろうかなぐらいの感じで、その3ヶ月後くらいに、林業塾が9月だったんですけど、12月くらいにふと、牧からメールがきて“12月25日クリスマスだけど空いてる?”という(笑)

丸尾

クリスマスにどういうこと!?(笑)

井上

え?っと思いましたけど(笑)空いてますよ!(笑)
じゃあ“ちょっと一緒にご飯行こうよ”って言って、仕事終わりに忘れもしない赤坂サカスのスケートリンク場の前で待ち合わせです(笑)

丸尾

(爆笑)

井上

周りはカップルばっかりですよ(笑)クリスマスこの待ち合わせあるかな?と思いました(笑)男二人でご飯食べながら話しました。

丸尾

どんな話だったのですか?

井上

初めてそこで西粟倉の話を聞きました。本当にまだ紙一枚の事業計画とも言わないような紙でした。西粟倉でこういうことをやろうと思っているという。

丸尾

西粟倉・森の学校の構想ですね。

井上

それを見ると、山とお客さんを繋ぐ、その中で森の学校という組織を作って、今まで丸太がどこに行ったかわからない西粟倉で、しっかり最終的な商品まで作って、もしかしたら家までつくるかもしれないという話でした。それをお客さんに届けることで、林業を経済的に回すという。

ビジネスモデルとしては、絵は描けると思うんですけど、それが本当にできたらおもしろいなと思いました。そして翌年の2009年の4月に会社辞めてすぐ西粟倉に移住してきました。

本当にちょっとのことでいい、よかったなとか、楽しいと思える瞬間を大事にする

岡山県北で
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